盛岡聖公会 宣教50周年 記念誌から
    盛岡聖公会 記念誌
 
 ・揺籃時代の思い出‥‥‥森 譲
 揺籃時代の思い出 
                         森   譲

 光輝ある盛岡聖公会講義所開所の年は、私が同所に誕生、受洗したのと同年で、こうして私の生涯には終始、盛岡聖公会がついているということは誠に光栄の至りであり、感激の源泉であります。

 わが聖公会神学院近年の逸材、校友の一人である村上達夫司祭から私の「在盛当時の思い出の記」をとのことでしたが、それは何しろ私の零才から六才までのひよこ時代でありまして、全く以て他愛ない話ばかりです? ただし、もし「三つ児の魂、百までも」ということがあるとすれば、この他愛ない思い出の盛岡時代というものは、私にとっては中々重大な意味深長なものであり、その私の揺籃であった盛岡聖公会に対しては生涯の敬意と親愛と孝行を捧げねばならない次第です。

 さて、そんな具合で先ず思い出すのは、当時の畳の間と板の間の幼稚園保育室の続いた礼拝所です。夜になると、天井からつるされたいくつかのランプに火がともされて礼拝が始まる。近ごろ初代教会の礼拝の研究でデアコノ(執事)がランプを祝福して‥‥‥というような記事を読んでいると、初代教会の礼拝とあの盛岡の幼時の礼拝とが折り重なった映像となってまぶたに浮びます。もちろん初代教会の方はギリシャ、ローマの世界でのこと、他方は日本でのことですが、しかしそのどちらにも同じ福音の光が輝き、同じ信仰の礼拝が行われていたのです。

 私が今日唱えている使徒信経も、「なぬかの旅路、やすけく過ぎて」や「神のみ子、みさかえとみくらを離れ」やその他、数々の聖歌や主の祈りも、みな、あの盛岡の頃に覚えたものです。使徒信経を唱える時には必ずくるりと祭壇の十字架の方を向いたあの動作は今の私にもつながっています。

 「神のお子のイエスさまは‥…」という歌を聞くと、あの保育室に飾られたクリスマス・ツリーと、殊におかしなことに、その下に並んでいた大きなまんじゅうに押されていた焼印の色までがまざまざとまぶたによみがえって来ます。

 父がその頃どんな働きをしていたか、ただとにかく白いものを着て大きな本(聖書)を読んだり、お話をしたりしていた姿が断片的に浮んで来るだけですが、私が父の形身として秘蔵していた盛岡時代の父のノートを見ると、相当はりきって勉強もし、牧会の手伝いもしていたようです。それは私の従軍不在中、水戸の戦災で焼けてしまいましたが、一巻二百ページ程の、五号活字位の細字を毛筆でぎっしり書き込んだ和紙のノートで、ABC順にZ号まであり、アンブラー師述「新旧約全書註釈」、「教会史」、「教会法」、「祈祷書講義」というようなものでした。私はこれを見る度毎に公会の数えの厚みや、教役者はそれをコツコツと学んで、しっかり伝道することを何よりの光栄とする主の仕え人なのだということを教えられました。


 水戸と言えば、これも私の盛岡時代の幼な心に印されたブリストー先生のお宅で働いていた、そして同じく幼な心に覚えていた藤沢のお婆さんという方が終戦後96才の高齢まで水戸におられて、私はそのお婆さんの盛岡弁をなつかしみつつ、牧会訪問や臨終の聖餐や埋葬式もしました。

 昔を偲ぶ写真も戦災で失いましたが、その中に一枚、教会の何かの集まりの記念に30人程の人々と一緒にとった写真の中に私もかっぱ頭で仲間入りしていたのは殊によく覚えています。その中にはまんじゅう帽子をかぶった目のくりくりしたクック先生という司祭さんもおられました。

 ところで私が先年、山本秀治司祭さん達と一緒に沖縄聖公会の手伝いに出かけ、米軍病院のチャペルで説教をした時、そのクック先生の奥様が米軍経済部長夫人として来て居られたお嬢さんを訪問滞在中で、一夜キャンプの晩餐に招かれて、なつかしそうに語られる盛岡時代の思い出をいろいろと伺いました。

 私の二人の兄は教会の真向いの桜城小学校に通っていました。その頃、学校の裏は一面の水田で、私たちにとってはおたまじゃくしや、田にしや、いなごの採集場だったのですが今はもう家々が一杯でしょう。

 教会の門の右側の庭に一本の大木があって、ある冬の終り頃、兄弟三人でその根本に大穴を掘り、夏までとっておくのだと言って、雪の塊(かたまり)を埋めたものですが、それが数々のなつかしい思い出と共に今もまだ残っているような気がします。

 開運橋の鉄橋の出来あがる頃、父の仙台聖公会転任に連れて私も盛岡聖公会にお別れしました。

 父は仙台では稲垣司祭の下に働くと共に、同市材木町に講義所を開き、また近村の伝道にまわり、大正9年、東京大塚聖公会に転じてアンデレス司祭を助け、同10年足利に移って同市聖マリア教会の聖堂を建て、更に栃木、佐野と新聖堂を建てつつ転任し、この間、デアコノに叙聖され、昭和9年9月10日盲腸炎がもとで聖ルカ病院で62年の生涯を終りました。父は三重県桑名在の万古焼本家の嗣子でしたが、青年時代に入信し、更に伝道者を志して家を追われ、聖三一神学校に学び、のち盛岡聖公会に赴任して壮年伝道者としての日をこの地に過ごしたのです。

 かつては父に反対した祖父母も晩年には受洗し、何かにつけて父をたよりにしていました。父の最大の道楽は各種パンやビスケットの製造と世界各国語の聖書を集め字引や文法書と首っ引きでそれを比較研究することでした。

 主イエス・キリストの福音を以て最上の富とし誇りとし、世の清貧に安んじてコツコツと宣教牧会に生死する。これが父の私に示し伝えた精神です。そしてその背後にはわが盛岡聖公会がいつも大きく存在しています。

                      (聖公会神学院長)
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