宣教100年記念 講話

スクリーンに昔の司祭館・幼稚園の写真が映し出されている

  盛岡聖公会100周年記念講話(要約)
 
「宣教100年を生きた盛岡聖公会とこれからの信仰生活」

主教 ウィリアム 村上 達夫
(元東北教区主教)

2007年11月3日(土)13:30-14:30
       

 Ⅰ 歴史と私たち

 中津川の流れを毎日眺めて暮らしている。普段見ているのは.「上の橋」から「野の花美術館」のあたりまでの一部分であるが、ある日ふと上流はどうなっているのだろう、下流の方はどうなるのだろう、と思っている自分に気付いた。盛岡聖公会の百周年を迎えるということは、そういうことなのだろう。忙しく歩きまわっている極めて「日常的」「散文的」な生活の中で、一時立ち留まって、「劇的」に流れる盛岡聖公会の歴史をご一緒に偲び、かつ未来を思う、大切な一時が与えられたことを感謝したい。

 上流を遡って行くと、厳密に言って必ずしも同じ水質を備えていない数多くの小川が、中津川に流れ込んでいるであろう。教会も同じで、生い立ちや育ち方も異なる人々、文化の異なる人々さえも、一つの川に流れ込み、一つの流れを形成して流れ続ける。人間一人一人、それぞれ違う人生を背負って生きている。しかも、自分に与えられた人生を通してしか、福音を宣べ伝えることができないとすれば(イザヤ書53・1の欽定訳を参照のこと)、どれほど正確に福音を宣べ伝えようとしても、偏りや間違いの起こるのは仕方のないことである。しかし、川が一定の自浄作用をもっているように、教会も、お互いに学び合い助け合うことによって、なかんずく神様の赦しの御意みによって、聖なる公会という一つの流れになって流れることを許されてきた。

 次に、百周年に当たって我々は盛岡聖公会の百年だけを考えやすいが、もっと視野を広げて上流まで遡ると、東北教区の歴史があり、日本聖公会の歴史があり(日本聖公会歴史編纂委員会編『日本聖公会百年史』は各教会の本棚に常備してほしい)、最終的根源的にはイエス様にまで遡る。イエス様の時代は、我々に関係のないほど遠い遠い昔なのではない。百歳の信者さんを20人分遡れば、イエス様の時代に到達することが出来る、と考える人もいる。二千年後の今の我々も、イエス様がお弟子たちを派遣された時の「近づき(マタイ28・18)」あるいは「息吹(ヨハネ20・22)」をすら感じることができるのではないか。

 Ⅱ 盛岡聖公会の百年

 (1)
 さて、時間の制限もあるので、盛岡聖公会の百年の歴史を大体三等分して考えてみよう(以下、スクリーンに写しだされる写真に従って)。盛岡聖公会百周年の起点は、普通1908年(明治41年)5月10日とされる。この日、鷹匠小路五番地の一住宅を借りて、森録次郎伝道師司式のもと盛岡講義所第一回の定期礼拝が行われた、との記録がある。説教の題はヘブル書11章8節。多分、神様のご命令に従い、行く先も知らずに出かけて行ったアブラハムの信仰について、説教なさったものと推測される(最近の説教は説明が多すぎて、福音が語られていないのではないかとの批判が、耳に痛い)。欧米化近代化には熱心であったろうが、キリスト教には反対、という大勢の中で、イエス様だけが頼みの船出であったと思われる。礼拝出席者は、男3女3小2、未信者女3。信施金32銭と記録されている。開拓伝道に当たられた森伝道師に感謝するとともに、名前を残すことなく単なる数字となってしまわれた方々の蔭のご奉仕にも感謝したい。歴史は、有名な人々によって作られるだけではなく、名も知れぬ多くの方々によって支えられるのである。神様はどちらもご承知である。

 また、実質的な盛岡聖公会の発足は、1911年(明治44年)仁王小路(現在の中央通)の現在地への移転である。土地・建物とも教会所有のものとなり、恐らく聖別式が執り行われたことであろう。木造平屋建の方には礼拝堂・幼稚園。木造2階建の方は、1階には牧師館、2階には宣教師・婦人伝道師・幼稚園保母の宿舎があった。(この宿舎は、終戦後幼稚園の裏庭に建てられた木造二階建ての「新館」の2階と共に、幼稚園の先生方以外の多くの人々によって利用され、良き友情が育まれた。)

 さらに、1917年(大正6年)には、村上秀久司祭着任、路傍伝道が始まる。1929年(昭4年)12月15日にコンクリート造の現在の礼拝堂が新築され、ビンステッド主教により聖別された。当時は堂々たる礼拝堂であったが、今はマンションに囲まれ、谷間の教会の様相を呈している。世の光から、地の塩への変化か。新礼拝堂塔屋正面にはケルト十字架、ほか三面には聖アンデレか聖パトリックを現わす斜め十字架の紋章が飾られており、設計者はあるいは聖パトリックを心に措いていたのかも知れない。

 (2)
  百周年を三等分した、第二のポイントは1941年(昭16年)で、米英への宣戦布告の年に当たる。前年に宗教団体法が制定され、外人主教・宣教師は辞任帰国、米英的色彩の濃いと見られてきた聖公会に対する教団認可は遂になく、翌1942年(昭17年)に聖公会は一つの組織としては解体、各教会は単立教会として認可された。しかし、単立教会では聖公会の教会観に反することでもあり、既に認可された日基教団に「普公性を与えるため」という観点から、1943年(昭18年)11月に、72の聖公会(東北では、仙台と盛岡)が日基教団に合同した。盛岡聖公会も、1948年(昭23年)5月12日に東京聖三一教会で復交式(『日本聖公会百年史』の年表では「復帰式」となっている)が行われるまで、「日本基督教団城北教会」の看板を掲げていた。それでも、牧師館には憲兵が出入りし、太平洋戦争末期には礼拝堂は陸軍省糧株廠に摂収され、主日礼拝も信徒の出席者はほとんど無く、牧師館座敷で礼拝が捧げられた。

 国家権力の圧制によることとは言え、聖公会が単立教会と合同教会に二分されたことは、悲劇であった。しかし、背後には「聖公会はカトリックなのか、プロテスタントなのか」という教会観の相違があったように思われる。聖公会はもともと歴史的に間口の広い教会なので、広い間口のどの部分から聖公会に入ったのかによって、それぞれ異なった教会観を持ちやすい。間口の広さが、豊かさに至ることなく、かえって重荷になって教権主義や教条主義を生み出しているとすれば、残念なことである。いずれにせよ、合同派の聖公会に対しては、後に厳しい批判が浴びせられることになる。

 1945年(昭20年)に太平洋戦争は終わりを告げ、再び新しい欧米化の波が押し寄せる。多くの人々が新しい価値観を求めて教会を訪れ、教会内青年の間にも新鮮な活動が開始された。夜の聖書研究会、区界伝道、八戸や小岩井での修養会、厨川での日曜学校、釜石での合同日曜学校夏期修養会、などなど挙げればきりがない。アメリカ文化「だけ」を求めた人々、福祉活動「だけ」を求めた人々、教養「だけ」を求めた人々は、やがて教会を去ることとなる。また、教会の現実に失望して、教会を去った方々もあろう。心が痛む。


 神学的にも、空高くいます神様から、この世のまっ只中で働きたもう神様へ強調点の移動。個人の魂の救いよりも、社会正義の実現の強調点の移動が感じられる。ただ、行き過ぎに対する信徒の心配が残る。

 1967年(昭42年)11月3日、仁王幼稚園園舎・教会会館・牧師館の落成式が行われ、おおよそ現在の形が整った。米国ワシントンD・C、聖オルバン教会からの寄付も忘れることができない。

 (3)
 百周年を三等分した第三のポイントは1974年(昭49年)であるが、この年は村上秀久司祭逝去の年に当たる。長年にわたり盛岡聖公会の伝道牧会に当たられた同司祭の後任には、村上達夫、笹森伸児、佐藤真実、村上達夫、佐藤忠男、笹森伸児、中山茂の各司祭が当たられ、現在に至っている。

 組織者、礼拝学者、社会学者、心理学者、聖書学者として、それぞれの賜物をもって貢献くださったことを感謝するとともに、それぞれの時代に良き奉仕をなされた、副牧師の方々、信徒の方々、幼稚園の先生たち、その他盛岡聖公会を思う多くの方々のご奉仕を、神様が豊かに報いて下さるように祈ってやまない。

 Ⅲ これからの信仰生活

 聖書は二つの「隅のおや石」について書いている(エペ2・20)。一つは私たちの信仰の出発点でもあり基礎・土台でもあるイエス様であり、もう一つは私たちの信仰の建物のアーチの最後の石となってすべてを完成して下さるイエス様のことである。一方ではイエス様が語られたお言葉を大切にするとともに、他方では未来に向けて私たちとともに歩まれる復活のイエス様を忘れずに、教会生括・信仰生括を過ごして行こう。

 そのために、教会教育・学習のプログラムを充実させよう。自分に出来ることはどんな小さなことでもお捧げしよう。暖かい挨拶、一人への訪問、一人への手紙書き、などなど。そして、何よりも、心のこもった代祷。初めの一歩は、小さな一歩で良いのです。「百年の計は人を育てるにあり」という言葉もある、新たな百年先を目指して種を蒔き続けよう。
        (2007・11・3)
  ★講話に続いて、幼稚園ホールにおいて茶話会が行なわれました。 ★聖歌隊による合唱もありました。

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